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望診で何を知るのか

  • 峯 尚志
  • 2023年4月30日
  • 読了時間: 6分

更新日:2023年6月17日

望診と未病、望診の果たす役割

透視能力があった名医・扁鵲

今回は古代中国,春秋戦国時代の名医,扁鵲(へんじゃく)先生に登場していただきます。

扁鵲先生には垣根の向こうを歩く人までみえたという逸話があります。透視能力をもった名医中の名医です。その扁鵲先生のお話をします。扁鵲は斉の桓侯の予後を見事に診断し,病が発病する前の軽症のときに治療を促しますが,桓侯(かんこう)は「寡人(徳の少ない人,王が自分自身を指していう謙遜語)に疾なし」と無視した結果,病が進行して不治の病になってしまいます。桓侯は必死に扁鵲を探しますが,扁鵲は病の不治を知り,すでにその場を去っていました。その後,桓侯は扁鵲の診立て通り不治の病となり,命を落としました。扁鵲は病が腠理・血脈・腸胃・骨髄というように体表から身体の奥に向かって進行し,奥に侵入するほど病が重くなるという考えを示しています。



望診と未病

なぜ形に現れる前の患者さんの状態や雰囲気というものを東洋医学では大切にするのでしょうか。抗生物質などの魔法の弾丸をもたなかった古代の人たちは,病気にならないための養生をとりわけ大切にしました。現代では,いろいろな愁訴があっても診断基準を満たさなければ,「まだ病気ではありませんからもう少し様子をみて,病気になったらいらっしゃい」ということが実際に行われています。しかし,治療的立場の不調は軽いうちほど治しやすいのは当たり前の話です。すなわち予防医学の立場です。


予後を知り,未病を治す

望診で一番大切なのは,患者の予後を知ることとされています。これはヒポクラテスの医学と同じです。その病気がどのような経過をとるのか,治る見込みのある病気なのか,見込みのない病気なのかを知ることが大事だったのです。そして治る見込みのない人に対しては,原則として治療はしません。看病があるのみです。ちょっと冷たいような気がしますが,古代の生命観・死生観には、学ぶべきことが多くあると思います。病が重くなってしまっては打つ手がないことを知っていた古代の医師たちは,未病の状態を重視し,できることなら病気にならないうちに治してしまおうと考えたのです。医療技術の未熟だった当時,誰が助かるか,助からないかは大切な問題で,為政者を治療していた医師は,その予後を見誤ると,処刑されるリスクも含めて、自らの生命を危険にさらすことになります。『黄帝内経』にも死証に対する記述が多数みられます。望診として見るほうも命がけで診たからこそ発達していった医学であったわけです。


方証相対と望診

その病気がどのような経過をとるのか,治る見込みのある病気なのか,見込みのない病気なのかを知ることが大事だったのです。そして治る見込みのない人に対しては,原則として治療はしません。看病があるのみです。ちょっと冷たいような気がしますが,古代の生命観・死生観には、学ぶべきことが多くあると思います。病が重くなってしまっては打つ手がないことを知っていた古代の医師たちは,未病の状態を重視し,できることなら病気にならないうちに治してしまおうと考えたのです。医療技術の未熟だった当時,誰が助かるか,助からないかは大切な問題で,為政者を治療していた医師は,その予後を見誤ると,処刑されるリスクも含めて、自らの生命を危険にさらすことになります。『黄帝内経』にも死証に対する記述が多数みられます。望診として見るほうも命がけで診たからこそ発達していった医学であったわけです。

中国医学の弁証論治を正しく日本漢方に取り込んだのは,曲直瀬道三だといわれます。日本的な方証相対は曲直瀬道三まで還る必要があるといわれることもあります。

考証学的な考察は抜きにして,私が思うのは,道三が「弁証論治」という言葉でなく「察証弁治」という言葉を使っていることの意味についてです。道三は「証を弁ずる」のではなく「証を察する」と言ったのです。この言葉には深い意味があると私は感じています。道三は学と術の双方に秀でた名医であり,師匠の田代三喜とともに望診についても達人だったに違いありません。患者さんの脈や腹をうかがったり,問診をしたりする前に,望診によりいろいろな情報を察することのできる人だったのです。すなわち道三の「察する」ということは「望る」ということを意味していたのだと思います。

日本においては,漢方薬をエキス剤で処方する先生が大半です。エキス剤は,規格品ですから,ロットの差がなるべく出ないように調整されています。同じメーカーのものであれば,ほぼ同じ組成をもっていると考えてかまいません。一方,エキス剤は患者さんによって生薬を加減することが不可能です。これはエキス剤の大きなデメリットですが,このような規格品を処方することで,ある処方に対してそれぞれの患者さんがどのような反応をするかをより詳細に観察することができるようになります。処方と患者さんの相互関係をみるとき,一方を固定することで他方の変化に対する一方の反応が観察しやすくなるわけです。患者さんの望診所見によって,すなわち患者さんを一目見ただけで,例えば加味逍遙散という処方がその患者さんにどのような効き方をするかを予測することができ,今度はその分量を加減したり,適切な合方をしたりすることによって,より患者さんに合った処方をすることができるようになるわけです。ときには正証といわれるような人,例えば加味逍遙散証そのものという人に出会うことがあります。このようなときには,この患者さんのすべての情報をしっかりと記憶してください。

しばしばやり玉にあげられる日本漢方の方証相対ですが,方と望診所見の相対ととらえると,方証相対によって処方を考える医師は望診力がアップするという,メリットがあると思います。方証相対でとらえた患者さんの情報というものは,言葉で細切れにされた情報ではなく,生命体そのものの情報なのです。そこから切り出した情報が言語化された情報というわけです。感覚的に情報をとらえる能力に優れている日本人にとって,方証相対がなじみやすいのは,重要な理由があるのです。すなわち感性による方証相対の理解です。

曲直瀬道三という人が学問だけでなく,感性の鋭い人だったことを表すエピソードはいろいろとありますが,ある浦を通りかかったとき,村人にことごとく死相と死脈が出ているのに驚き,海岸をじっと見つめたとき,はっと津波の到来を感じ,村人を山に避難させて,津波から村人を救ったというエピソードがあります。また 78 歳にしてキリスト教の洗礼を受けるなど,因習にとらわれない人物であったようです。察証弁治という言葉は,方証相対と弁証論治を結ぶすばらしい言葉だと思います。日本漢方の方証相対を単にパターン認識ととらえるのでなく,望診を重視して具体的な患者さんそのものをとらえる方法と考えたとき、治療に結び付く糸口が得られるように思います。




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